【夜葬】 病の章 -65-
――おかわりありますか、だと? どこの誰だ。そんな間抜けなことをわざわざ言いに来るのは。
布団の中で窪田はそれを挑発だと捉えた。
女性の声であることはわかったが、心当たりはあるようでない。いや、ありすぎてわからないと言った方が正しいのかもしれない。
もしもこれが窪田や五月女ではなく、彼らが船乗りと呼ぶ鈍振村の人間だったらどうだろうか。
すぐさまそれが【夜葬】の習わしだと気が付くだろう。
それならば窪田が答えるべきは「ありません」、だ。
しかし窪田は沈黙を選んだ。
沈黙によって厄が去るのを待とうというのだ。
「そこにいるんですね」
――いねぇよ! いねぇからさっさとどこかへ消えちまえ!
窪田は布団の中で貧乏ゆすりをしながら、心の中で悪態をついた。ただ正体不明の女がいなくなるのをじっと待つ。
「いまからいきます」
――はあ? いまからいきますだぁ? どこにいくっていうんだ。馬鹿が。
窪田の家の戸が、ギギ……と軋んだ。
外から人が戸を開けようと力を込めている音だ。
だが当然、中から心張棒をしているから外から戸は開かない。
女のくせに乱暴なやつだ、などと窪田は舌打ちをした。
――いや、違うな。女を出汁にして船乗りのやつらがやってきたんだ。それで無理に……。
邪推の途中で今度はギィ……と戸が開く音がする。
聞き間違えかと思ったが、さきほどの外から開けようとしている音とはまるで種類が違う。
それにふたつの音の違いは、ほかならぬ窪田が一番よく知っている。
間違いなく、戸が開いた音だった。
――……? おいおい、冗談じゃねえぞ! 一体どんな手品使いやがった。心張棒で封じてる戸を開けるなんて!
窪田に焦りが募る。
このまま布団にくるまっているべきか、それとも布団を翻し、意表を突いたうえで脱兎のごとく逃げるべきか。
布団にくるまっているだけでやり過ごせるのならばそれにこしたことはない。だが、逆にくるまっていつづければ、捕まるのを待っているだけだ。
蛇穴を突かれ、たまらずでていくのを待ち構えられている心境になりながら、窪田は必死に考えを巡らせた。
だが不思議なことに、戸が開いてからなんの動きも感じなかい。
物音もしないし、誰かが入ってきたという気配もなかった。
やはり、聞き間違いだろうか。窪田は次第に希望を込めてそう思うようになっていた。
どれだけはっきりと耳でとらえた音も、時間が経てば確信が持てなくなる。
経過した時間が長ければ長いほど、確信は曖昧になっていくものだ。
そして、曖昧に化ける時間というものは人によって違う。
布団の中という狭い空間で、まるまっているだけの窪田にはその時間というのはわかりやすく短かった。
それでも外に飛び出るほど馬鹿ではなく、ここでも周到な性格が垣間見えた。
神経を集中し、耳を澄ます。五感を最大限に広げ、気配を感じようとした。
――いない。いない……よな?
あの時聞いた戸が開いた音。
それはもはや幻聴だと窪田は結論付けた。
気疲れと睡眠不足からきたのだろうと溜め息を噛み殺しながら、念のために、と中から布団をめくりあげ、屋内の様子をうかがう。
「おかわりありますか」
瞬間、心臓が止まり、息が止まり、時間が止まった。
布団の中を覗き込む“それ”と、思いきり目が合ったのだ。
突然すぎる現実味のない光景を前に、窪田は思考が停止した。
それが誰なのか、なんなのか、どうやって中に入ったのか。そういった疑問を瞬時にして吹き飛ばす衝撃だった。
「――は?」
ただひとつ、窪田は無意識に違和感を覚えた。
目の形がおかしい。瞼が下にある。涙袋かと思ったが、どうやらそうではないらしい。
それに鼻の筋が額に向かっているのも訳が分からなかった。
そして、眉毛が頬についていることに気が付いた時、違和感の正体がわかった。
「うぎゃあああああ!」
違和感が解けたのと同時にあらゆる感情や温度が正気と共に窪田に戻った。
皮肉にもすべてが戻った窪田にもたらしたのは圧倒的な恐怖。
くるまっていた布団を翻して、股を広げた恰好で後ずさった。
窪田が解いた違和感の正体。
それは顔面の天地が逆になっていたのだ。
それなのに身体はまともに、足で立ち手はちゃんと肩に付いている。
布団から飛び出して、その全体を直視した窪田はさらに悲鳴を重ねた。
確かに体は普通だが、顔と体のバランスが歪だったのだ。
体は、どう見ても年配の男の体。骨と皮だけの痩せ細った手足は生気をまるで感じない。頭部も顔面を除けば、見た目通りのざんばら頭の白髪。
ただひとつだけ違うのは、逆さの顔面だった。
まるで一度、丸くくり抜いた顔を逆さにして入れ直したような。
しかし本当のアンバランスさはそれではない。逆さにはめ込まれた顔だ。
その顔は、女の顔だった。
つまり、“老人のくり抜かれた顔面に、別人の顔が逆さにはめ込まれている”ということ。
そして……その逆さの顔を窪田は知っていた。
「ふ……舟越……ゆゆぅうううっっ!」
そう。老人の顔面にはめこまれていた顔は、ゆゆのものだった。自分自身が殺したゆゆの。
「やめ……やめろ……! あっちへ行け! 俺に近づくなぁああ!」
発狂したように叫び狂う窪田をよそに、ゆゆの老人は手に持ったノミをおもむろに振りかざし、距離を詰めてゆく。
窪田は訳の分からないことを叫び散らし、布団の上に大きな小便の水たまりを作った。
ぱちゃり、とそれを土で汚れた素足で踏み、ノミで顔を一突きしたの同時に窪田の悲鳴は鳴り止んだ。
窪田の家に再び静寂が訪れた。ノミを顔面に突き立てる音だけを除いて。
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